【HSP】ネガティブ思考に感謝する日常

気楽に賢く、正しく生きて行きたいHSPでネガティブな日常を綴ります。

神様なのか?セドナメソッドで手放す境地に導いてくれたのは?

2つのミスを連発!ヒヤリハット報告を強要される

昨日はとてもじゃないけど、気分よく過ごせない出来事が起きた。

 

久々にゼロ歳児クラスに入ることになったが、2つのミスを昼礼でヒヤリハットとして発表するよう私曰く腐れ縁のパワハラ上司に命じられた。

 

1つ目はベビーベッドの柵の上げ忘れなので、確かにヒヤリハットに違いない。たとえ一回だけでも報告した方が皆も気を付けられるし意味があるから仕方ない所だった。

 

問題は汚れたオムツ(うんちをかえた汚れたゴミでビニールに入って閉じてある)の置き忘れについてだ。

 

熟練の公開処刑ヒヤリハット報告

「これヒヤリハットなの!」と疑問を持ちながら報告することになった。

 

言い訳がましく聞こえるかもしれないが、左利きのため右利きは置かない左の棚(子供の手は届かない)に置き忘れてしまった。

 

2つの報告は5分程度で上司が自分が2つの件を発見し指摘したと誇らしげに発表しているように思えてならなかった。

 

私にとってはミスを暴露される、公開処刑に他ならず、この保育園で勤めるようになって4回目のことだ。

 

昼礼の場では園長、副園長もいる前でとにかく、深い反省をアピールしその他の先生からのダメ出しはなく今までで一番スッキリ終わった感じで自分の成長を感じた。

 

「とにかく腹を立てたら負け、言い訳を前面に出したら負け」と経験から思い知らされているから「ご指摘いただき、ありがとうございます」というスタンスで頭を擦り付け土下座をしているかの波動を醸し出し、迫真の勢いの演技で風と共に事務所を去りぬで幕を閉じた。

 

意外にもスカッとしていた「熟練の手応えとは、こんな感じに違いない」

♪ウイアーザチャンピオン、ウイアーザチャンピオンとメロディーが大きく鳴り響いた。その後2時間口角をギュッと上げて、とにかく動き続け、淡々と業務をこなし終業となった。

 

セドナメソッドで手放せない反芻思考

苦しみは帰路から始った。

「オムツの置き忘れ!絶対ヒヤリハットじゃないじゃん!2年前もやってましたとか、2年前も1回だけなのに。やっぱりパワハラとかいじめの範疇だよ!」

 

自転車に乗った瞬間、反芻のスイッチが押され抑え込まれていた感情が爆発して噴出を開始した。悔しさが込み上げて涙が目に溢れてきた。直感で思い浮かんできたのは、セドナメソッドだった。

”「この感情の核心へと入っていける?」「この感情に潜り込める?」。「もっと深くまで行ける?」

 

潜り続けると、何かが内側ではじけるところ、あるいはこれ以上先へは進めないと思えるところへと到達、心が静かになり、内側で穏やかな感じがすれば核心に着いたとわかります。内なる光に包まれ、温かく迎え入れるような空間と静けさに囲まれている自分が見えるかもしれません。

本の中に書かれたここに行きたいと心から望んでいた。

何度も怒りや、悲しみの感情が起こってきて、

「手放せますか」

「手放しますか」

「今」

とやって、握りしめたペンを落としたりしてみたが、一向に静かな心に到達なんかできず、溝内の下くらいがジュクジュクした感じが抜けなくなった。

 

この感情は自分の一部じゃなくて物体だと思い込もうとしても、全然受け入れられず、かえって一体化して深い水の底に向かって深く深く沈んで行く感じだった。

感情を第三者に吐き出した異常行動?

旦那に一部始終を話した。愚痴りに愚痴った。

 

こっち寄りの意見を口にしていたが、わざとらしくて癒しのかけらも得られた気はしなかった。とは言え外にぶちまけたことで少し溝打ちの下ジュクジュクが楽になった感じはあった。

 

他にやったのは、Twitterに新しいアカウントを作って、今回の件をツイートし①「これはパワハラとかいじめだ」②「そこまではないがオムツの置き忘れはヒヤリハットの報告の必要はない」どちらにしても自分が満足する選択肢を作って投票してもらった。

 

「自分もよくやるなと」怖い気もしたが、別に誰にも迷惑もかけないしと容認させてもらった。

 

誠意ある2人からのデータで100%②だった。大満足だった。まぎれもなく自己満足に違いないのだが。「2人の方本当に感謝です」

溝打ちのジュクジュクがさらに弱まった感じがした。

手放す境地に到達する奇跡!

風呂にはいらなきゃと思って横になっているうちに眠ってしまい1時頃目が覚めた。最悪のタイミングで「今日はもう眠れないかな」と諦めモードで朝まで反芻に苦しむのどろうと諦めていた。

 

ところが、突然映像が自動で流れて来た。

 

転職が決まって、職場に来る最後の日だった。誰もいないロッカールームに自分がいてニヤニヤしていた。自分の好きな人のロッカーの前にだけ大きなプレゼントを置いていた。そんなにプレゼントの数は多くはなくて、逆に多くのマウンティングされてきた人、ちょっとでも気に食わない人のロッカー前を素通りするたびにニヤニヤが止まらなくなっていた。

 

映像を見る自分の心はすごく静まっていて穏やかだった。

セドナメソットで到達すべきところは「ここに違いない」と確信した。

「いつでも辞める自由があるんだ」という声も聴こえてきた。

いつの間にか眠っていて朝目覚めると大分ジュクジュクは良くなってた。

神様からのシンクロニシティの気づき

テレビに流れるシンクロニシティなニュースが飛び込んできた。

運転していた園長と保育士の不注意で園児が1人送迎バスに取り残されて亡くなった事件から1年が過ぎたというもので被害者の両親が怒りと悔しさを語っていた。

ハンマーで頭をガーンと殴られた感じがした。

「不注意!そうだ、ちょっとした不注意からこういう事故に繋がるんだ。」

「オムツの置き忘れ自体は事故にならないかもしれないけど、そんな不注意を繰り返しているうちに、思わぬ事故を発生させて園児が被害に合うなんてことも、100%ないとは言えない。」

天からの気づきと思えた。

 

「小さな不注意も自覚して緊張感を持ち続けていないと」ポジティブな声が聞こえてきた。

家族にこの気づきを誇らしげに話した。

おわりに

それにしても、上司はそんな深い意味でオムツの置き忘れの報告を強要したわけがないとまたネガティブな反芻が始まった。

朝食を作りながら何度かこの反芻があったが、溝打ちのジュクジュク感は明らかに昨日より弱まっていて、まるで体から取り出せるようだった。

 

出勤する自転車の上で、急に昨日の夜見たロッカールームへ行きたくなってきた。気分よくなりたくて、憎き上司のロッカーの中に釘を打った藁人形を入れてスカッとしようかと思ったのだ。

 

上司のロッカーを開けた瞬間「違う!そこまでじゃない」と気づいた。「私はそこまでは望んでない」とはっきり分かった。

 

今は憎き上司のロッカーの前にプレゼントを置く気にはならないが、最後の日が来たらどうなっているかは知りえない。

 

少なくとも、釘が刺さった藁人形を入れてニンマリ笑っているようなおぞましい最後は望んでいないことは確かだった。

 

「私の物語に面白味を与えてくれてありがとう」なんて悟りを極めた思いで去ることができるかは今の時点ではハーフハーフとは正直言えないけれど、今回の一件で色々な気づきがあり成長できたことに感謝したい気持ちで「ありがとう」を伝えるのはやっぱり神様なのか?それとも…

to be continued