ストーリーテリングとは?
「ストーリーテリング」は最近よく聞くカタカナ英語ですが、直訳すると「物語を語ること」で合ってますね。
旦那との馴れ初めのを最初から最後まで話すことは、物語を語ること、ストーリーテリングのようですが、「旦那さんとどこで出会って結婚に至ったの?」という質問に対して馴れ初めを話す場合は「ストーリーテリング」には該当しません。
該当するのは、婚活アプリをすすめたい時にアプリで旦那と出会って結婚したストーリーを話したという時は「旦那との馴れ初め」がストーリーテリングの中心的な物語に該当することになります。
つまりストーリーテリングを短く言うと
“相手を伝えたい内容に引き込むために、インパクトのある実体験とか例え話とかを盛り込んで話すこと”になりますね。
昨日の私の日記の内容はたまたま読むことになった人の心を掴むことが出来る内容です。そして、その内容をストーリーテリングの中心として語りたいのです。
伝えたいのは“相手の気持ちを一番に考えると自然と上手く行く“という処世術です。
早速熱く語らせてもらいます。
ヒヤリハットのストーリー
保育室で子供の午睡中拭き掃除をしていたら、寝入ったばかりの子供が大泣きして、咄嗟に寝かしつけすることになったのですが、その時女児のズボンに漂白剤がに飛び散って、黒いズボンがまだらに変色してしまったのです。
休憩から戻った担任に指摘されて初めて気づき「ショック!」
慌てて掃除を中断して子ども所に行ったので、素早く手袋を外した時手に漂白剤が飛び散っていたんですね。
マンホールに吸い込まれるように落ちて行く感じ「やっちゃったあぁぁぁぁ!」
。意識が遠のいていく感じですよ。
保育園で漂白剤?と思われるかもしれませんが、コロナ禍じゃなくて0歳クラスでは毎日床、壁、おもちゃ全て消毒するんです。その作業量は膨大かつ時間も限られているんです。
「子供に漂白剤がついたら大変だから掃除中に子供に触る時は必ず手を洗うように」と園長から注意され、
「それは正道です、でもあの状況では不可能ですよ」と言い返したいところでしたが、もちろんしません。言葉を飲み込んで、同室にいたパートの人にボソッと愚痴を言いマンホールの中に戻りました。
お母さんへの謝罪
私の勤務時間は4時迄でお母さんは6時にお迎えなので2時間も残れないと思うので、明日の朝お母さんに謝るように園長と担任に言われました。
まあ、黒に茶色の牛バージョンですから、自分でも率直に謝りたいところでした。
自分で申し出て、一度帰ってから6時に再度来て担任の先生と一緒にお母さんに謝ることになりました。
もちろん人体に害がない濃度に薄めた漂白剤ですが、あの牛模様を初見した時のお母さんのショックは、私が体験した以上に絶大に違いないと思えました。
「掃除する時は他に子供を見る人がいて欲しい」とか
「トイレで怪我をさせてしまったパートも保護者対応はなかったのに」とか
色々不満な気持ちもありましたが、最もお母さんの気持ちに心のピントを合わせることが出来ました。
お母さんとは一度も会ったこともないので、年齢も人となりも全く知りません。
クレーマーとかかもしれないし不安がないわけではありませんでした。
ちょっとギリギリの6時前、
「薬品がこんなに子供についたら!危ない保育園」とか
「何この人資格あるのかな?」とか
対峙した時のお母さんの頭の中が私の頭の中に見え隠れしていましたが、それ以上に自分がこの時謝らないとマンホールから抜け出せないという気持ちの方がクリアでした。
ちょっと汗をかきながら自転車をひたすらこいでいるうちに園に到着しました。
お母さんが少し早いお迎えだったようで、廊下で既に担任が話を進めていました。お母さんの方から顔を見てくれたので、話し出すのが楽でした。
「いつも掃除をしているんですけど、今日は誤って洋服についてしまって、あんなショッキングなことになってしまって、本当にごめんなさい」
思えば特に言う台詞も考えていませんでした。
全部私が説明するのかな?
だとしたら「掃除中に飛び散ってしまって」くらいのファジーな説明な方が余計な不安も与えないだろうしいいんじゃないかな?
反芻もありましたが、自転車を飛ばしているうちに吹き飛びニュートラルな気持ちのまま母さんの前に立っていました。
結果的に殆ど無意識的に出た台詞が上の一言です。
言葉の準備はありませんでしたが、心はクリアに決まっていました。
「ごめんなさい」その一言で集約出来る気持ちでした。
「大事なお子さんに、漂白剤をつけそうになってごめんなさい」
「ズボンをまだらにしてしまってごめんなさい」
とにかく自分のお母さんへの申し訳ない気持ちだけは決まっていました。
誰の気持ちを一番にするかが決め手
ストーリーを通して“相手の気持ちを一番に考えると自然と上手く行く“このことを伝えたいと最初に書きました。
このストーリーで大事だったのは、私が一番に考えたのが、園長や担任の気持ちじゃなくて、お母さんの気持ちだったことです。これが人として正しい選択で結果的に正解へと導かれたと思います。
担任が少し残ってお母さんに謝罪しなきゃならない怒りも分かったし、園長の素人相手のような雑然とした私に対する対応にも怒りを覚えたし、どちらの気持ちを一番に考えても結果的に再出勤してお母さんに謝罪するという行動は同じだったかもしれません。
でも、ブレずにお母さんへの謝罪の気持ち一点に目的が絞れたことが、自分自身の満足感、達成感、幸福感を200%に引き上げたと思います。
私が家を出たタイミングが絶妙だったのは結果的に与えられた正の引き寄せでした。
気をもんであまりに早く着いていたら担任や園長と話たりして気持ちがブレていたかもしれないし。誠意に欠け遅すぎていたらお母さんが帰ってしまったかもしれないし。足が少しパンパンになる位自転車をこいだ結果余計なことを考える余裕もなかったのも良かったし。
計算したわけではありませんが、自然とベストなタイミングが与えられたと思うんです。
相手の気持ちを一番に考えると自然と上手く行く
今回の出来事を通して“相手の気持ちを一番に考えると自然と上手く行く“ということを身をもって学びました。
自分の気持ちを一番にしたなら、
“掃除と同時進行の寝かしつけ”あの時はベストマックスな行動に違いなくて、それを周囲に分からせること、ここに焦点を絞っていただろうし、自分を正当化することに多くのエネルギーが使われていたでしょう。
そうじゃなくて、単純にお母さんに迷惑をかけたという失敗として扱えたことで、自分にとっても成功体験に持って行けたと思います。
ヒヤリハットを書くようなしくじり、失敗をしたのは、初めてではありませんが、ここまで一件を自分のために高められたのは初めてでした。ズボンは牛になったものの子供の体には何の傷害も与えることなく実りある学びが出来ました。
これから園長に提出して会議で報告するヒヤリハットも自分だけじゃなく有益にシェア出来ればジャンプアップして自信を持って笑顔でマンホールから出てくることが出来るし、今後誰もマンホールに入ることがないことを願うのです。